「古典文学の中に、『ノックの音がした』をテーマに書かれた話が数編あるんだ。」
「似たような話がいくつかあるってこと?」
「ある一人の作家が、『ノックの音がした』という同じフレーズで始まる短編小説を複数書いて、それらをまとめた一冊があったんだ。」
「ノックの音、ってどいう意味だか分かるかい?」
「昔は、扉というものがあって、扉の向こう側に居る人に、扉を開けて良いかどうかを打診するために、文字通り、扉を叩くことにしていた。そのことをノックと呼んでいて、その扉を叩く音のことを言うんじゃなかっただろうか?」
「そうそう、扉なるものが当時は、あったんだよね。ノックの音、どういう音なのか聞いてみたいねえ。」
「聞けるものなら、一度は聞いてみたいよ。」
「そもそも壁なるもので空間が分け隔てられていて、その壁を通り抜けるように行き来するために、扉なるものがあった。でも、壁なるものが存在しない今となっては、扉なるもの自体が必要ない。」
「ノックの音を聞くか聞かない以前の問題として、扉なるものを見たことないものねえ。」
「産まれながらにして、現代人は、ネットワークでつながっている。」
「そこに壁が存在するはずないからねえ。」
「かつては、個と個がばらばらで、その間のコミュニケーションなるものに工夫が必要だったり、努力が必要だったらしいよ。」
「壁があるために、それを乗り越える必要もあった。」
「プライバシーという概念もあって、それをどう守るかということなども真剣に議論されていたらしい。」
「とてつもなく面倒な社会だったんだろうね。」
「今じゃ、そういう煩わしさから一切解放されて、こうして生きていられる。」
「産まれながらにして、皆が皆、ネットワーク上でつながっているからね。」
「そこに個人という概念もなく、まったくの自由だしね。」
「でも、ノックの音を聞くことはできないね。」
「確かに、ノックの音を聞くことはできない。」
「聞けるものなら聞きたいねえ。」
「そもそも、ノックっていうのは、扉を拳なるもので叩かなければならない。」
「拳、手というものを握ってできるものね。」
「そう、扉があったとしても、肉体なるものが存在しない我々には、拳が作れないからね。」
「そもそも、ノックの音を鳴らせるはずもない。」
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