「しくみをみよう」構造目線

絵空ごと , 創作物語

悟りの境地(超短編)

「覚悟はできましたか?」
「ええ、決心しました。」
「では、心を落ち着けて、自分でタイミングを見計らって渡り始めてください。」
目の前には吊り橋があった。といっても、それが本当に吊り橋であるかどうかさえも分からない。
これから渡ろうとする向こう岸は、遙か遠くにあっておぼろげな影にしか見えない。
橋は人ひとりが通る幅しかなく、上から1メートルおきぐらいの間隔で垂直にケーブルが降りてきていて、そのケーブルでつり上げられている。
見上げても、そのケーブルの先は雲のような霞の中にあり、ここからでは、どうなっているのかは確認できない。
この橋を渡りきると、悟りの境地に達することができるということらしい。
今回、自分自身も悟りの境地に達することを目指して、この橋を渡ることを決心した。
向こう側までの距離は定かではなく、橋の下が海なのか川なのか、その深さも不明である。
なんとなくではあるが、この橋は巨大な吊り橋なんだろうということは想像できる。
橋のたもとには数十人の人が手をつながないと一周回らないぐらいの太さの円柱が2本建っている。
この柱の上がどこまで続いているのかは見上げただけでは確認できない。
おそらくは、向こう岸にも同じ柱が建っていて、その柱と柱の間にとてつもなく太いケーブルがぶら下がっているのだろう。
そして、その太いケーブルに取り付けられたケーブルが1mごとに垂直にぶら下がっていて橋を支えているように思える。
ケーブルの構造は、垂れ下がり具合が大きいほどケーブルへの負担が小さくなるので、長い橋を架ける場合には、その両端の柱をできるだけ高くして、なるべく大きくぶら下がるような形にしなければならない。
そのためにこの柱も見上げてもそのてっぺんが見えないぐらい高いものになっているのだろう。
そして中央に引き込まれないように、柱のてっぺんを外側に斜めに引き下ろすように引っ張ってやらねばならない。
この場所に来る途中、遙か彼方で斜めに降りてきていたケーブルが見えたが、それがそのケーブルの端部だったのだろう。
向こう岸に渡ると悟りの境地に達することができると言われてはいるものの、実は、なぜ悟りの境地に達することができるのか、どのような境地に達することができるのか、説明されていない。
少なくとも、向こう岸に渡った人は戻ってきてはいないので、境地に達した実体験の感想を直接聞くことができない。
それでも今回、覚悟を決めて、ここまで来たのだから、もう渡るしかない。
一歩踏み出し、ゆっくりゆっくり歩き始めた。
腰の高さぐらいの位置に、手すりのような細いケーブルが続いているので、それを握る手をずらしながら、ゆっくりゆっくり進んでいった。
しゃがんでしまうと一歩も進めなくなりそうなので、ひたすら悟りの境地に達することを願いながら、なんとか進んでいった。
進むごとに橋が左右に揺れ始め、さらに進んでいくとその揺れが大きくなっていくように感じた。
手すりのケーブルを握る手を強めながら、底知れぬ下の方に視線を向けることなく、ひたすら前を見て進んでいった。
雲のような霞の中から、両端で支えられてぶら下がっている太いケーブルらしきものが見えてきた。
おそらくかなり中央部分に近づいてきたに違いない。
向こう岸の影も徐々にはっきりしてきたような気がする。
さらに進んでいくと、ぶら下がっている太いケーブルの高さがより低くなってきた。
一番低く、頭に近づいてきたところが、ほぼ中央部分になるはずである。
最初は少しの揺れだと思っていた左右の揺れは進むに従ってその振幅を増し、真ん中に行くに従って歩けなくなるぐらい大きく揺れることになるのであろうことを覚悟して進んできた。
もしかすると、この恐怖心に打ち勝つことで悟りの境地に達することができるのかもしれないと思って、突き進んできた。
しかし、である。
ほぼ中央部分に達しているのではないかと思えた今、橋の揺れ具合が先ほどより小さくなってきているように感じられる。
「これは、どういうことなのか?恐怖心に打ち勝ったと言うことなのか?」
一人つぶやきながら、揺れ具合を確かめてみた。
「確かにさっきよりも揺れていない。」
この先、さらに進んでいくと、揺れが小さくなっていきそうだと感じられた。
「先ほどまでの大きな揺れはなんだったんだろう?」
上半身だけをひねって、これまで進んできた方を振り返ってみた。
橋はかなり揺れている。
かなり揺れている橋の向こうはさらに揺れている。
もと居た岸が向こうに見える。
揺れてる橋のさらに先で揺れている。
揺れているというよりも、それは踊り狂っているかのように見える。
「あそこに居たのか?」
自らが立ち続け、そこが安住の地であるかのように思い込んでいた大地が踊り狂っている。
「もう、あそこには戻れない。」
そこからは二度と振り返ることもなく、ゆっくりゆっくり進行方向に向かって歩いて行くことにした。
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