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不純異星行為論 003

矛盾に満ちた存在と不純な付き合い方

 

すべては理屈どうりにはいかないという理屈?道理?。
すべての物ごとが論理的に割り切れるものでは論理。

目に見えない隠れたことがらを、どう捉えるか?
先が読めないことがらに対して、どう向き合って予想するか?
さまざまなことがらとどう対峙するかという姿勢が問われる。
どういう姿勢で臨むのか?
その姿勢を決める要因は2つ。
一つは身体、もう一つは思考モデルである。

まず、一つ目の身体について、
自分自身を取り巻く環境と向き合おうとすると、
自分自身の存在そのもの、すなわち身体と向き合わざるを得ない。
自分自身の存在そのものが矛盾の上にあるものと認めたところから、

周りの環境との関係性を意識することができる。
周辺環境、もっと幅広く捉えるならば世界を身体で理解しているといえる。

数多くの例を示す中で、ものの捉え方について書かれている本がある。
『メタファーと身体性 鍋島弘治朗 ひつじ書房 2016』
具体的なものごとを抽象化して捉えたり、
抽象的なことがらを具体的なイメージで捉えたり、
身体と向き合うことにより自由な思考ができるようになる。

もう一つのモデルについて、
言葉そのものを、
頭の中にあることがらをモデル化するための道具だとすれば、
そもそも思考するためにモデルが必要なのではなくて、
モデルを作ることによって思考しているといえる。

モデルを具象モデル、数理モデル、数値計算モデルの3つに分類し、
モデル化するということの本質に向き合うことのできる本がある。

『科学とモデル シミュレーションの哲学 入門 マイケル・ワイスバーグ 著 松王政浩 訳 名古屋大学出版会 2017』

今一度、
身体抜きではものごとを把握できないこと、
モデル化することなしにはものごとを理解し得ないこと、
これらのことを認めるところから、ことを始めた方がよい。

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