構造的にものごとを観たかのように書く
不純異星行為論
序
ちょっと奇を衒ったようなタイトルであれこれ考えたことをブログに書いていこうかと思います。
どこまで続けられるかは分かりませんが、とりあえず書き始めます。
命は永遠に続かない。
未来永劫、永遠に続くものはない。
地球もまた、永遠に存続するものではない。
いずれ地球もなくなり、地球上の人類も存在しなくなる。
その時に、人類が他の惑星に移り住んでいるかどうかは知らない。
自分の命が潰えた後のことは、
自分がその場に存在しないのだから知ったことじゃやないと言っていいのかどうか?
この問いを出発点とする。
そもそも自分の存在そのものが、
たまたま、この世に命あるものとしているだけに過ぎない、偶然の産物。
そこに思い至らせると、自分の存在の小ささに気づく。
『二十億光年の孤独 谷川俊太郎』のイメージなど
自分自身は、たまたま存在していて、必然的に消えていく存在であり、
自分の存在を超えた時空の中のほんわずかな時間だけ接しているにすぎない。
でも、自分が存在している今現在の前後の遥か昔からの過去、遥か遠くの未来のすべてが、
自分の存在そのものだと思うと、
自身のちっぽけな存在もちっぽけなまま受け入れることができる。
こんなことは、とっくの昔に気づいている人がいて、
おそらくそれも一人二人ではなく、数多くの人が気づいている。
『歎異抄 唯円』を読むと、
もうここにすべて書かれているじゃないかと思えたりする。
改めて、出発点として掲げた問いと向き合ってみる。
自分の命が潰えた後のことは、
自分がその場に存在しないのだから知ったことじゃやないと言っていいのかどうか?
自分がちっぽけな存在であると認めるしかなく、
それを認めた上で、なおかつ自分の存在意義なるものを得ようとすると、
自分の命ある限られた時間だけでなく、
前後の遥か遠くの時空と向き合わざるを得ない。
よって、
自分がその場に存在しないのだから知ったことじゃないとは言えない。
開きなおって言ってしまうことにより自分自身の存在基盤を失う。
借りものの存在でしかない自分が、
たまたま居合わせることになったこの星で、命ある期間だけ異星人として生きていく。
そんな感覚で生きていくことができれば、
ことさら持続可能性というようなキーワードを掲げなくても持続可能な社会の営みが続いていく。
『宇宙人という生き方 松井孝典 岩波新書』などで
壮大な時間のものさしに触れることができる。
この地球上で異星人として、どのように生きていけば良いのか?
生きているあいだは、その方法を考え続けるしかない。
でも、その問いの唯一の正解があるはずもなく、答えを求めてもがき続けることになる。
もがき続けるための姿勢として、不純であることを受け入れておいた方が良い。
たまたまこの世に存在しているものの、
限りある命しか持ち合わせておらず、いずれ消えあることになるという自分と向き合うしかない。これはとてつもなく不合理である。
生まれた時から、この悩ましい境遇と死ぬまで向き合い続けるしかない。
なんの矛盾もなく、辛いこともなく、完全無欠の普遍的な状況があるとすれば、
自分のおかれている境遇はあまりにも辛いものである。
一人ひとりがそのような状況に置かれていて、
その集合体として人類が社会を形成して生きていくためには、
どうあがこうと矛盾に満ちた仕組みの中で工夫を凝らしていくしかない。
純粋であることを追求し始めると、この矛盾ある社会で生きることに耐えきれなくなる。
純粋であることが真理だと思い込んでしまうと、
そうではない社会との摩擦に苦しむことになる。
『悪の華 ボードレール に収められている詩 あほうどり』のイメージ
また追い求める真理が他人同士で異なると、
そこで摩擦が生じて、殺し合いをせざるを得ない状況に追い込まれることになる。
よって、重要な行動規範は、純粋さを求めないことであり、不純を追求することである。
自らの存在と向き合うためには、自らが自らの存在を意識しなければならない。
借りものの体が与えれ、ある時空に存在していることを確かめるためには、
時間とともに生きている実感を得る必要がある。
その実感を得るために必要なものが行為である。
行為として、手足を動かすことを容易に想像できるとは思うが、
頭の中で意識を巡らすことも行為である。
矛盾に満ちた異星でたまたま存在することになり、
不純であることを厭わずに生き続けること、それを不純異星行為と呼ぶことにする。
(とりあえず序はここまで)