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絵空ごと , 創作物語

祭りのあと(超短編)

祭りのあとには何が残るのだろうか?

期間限定で盛り上がる祭り。その時だけのために神輿や屋台が組み立てられて、祭りのあとは片付けられる。
その時だけであるからこそ、より一層盛り上がる。
それが祭りだ。
祭りは人々の心を高揚させるようだ。
祭りの夜には、花火が打ち上げられることもある。
大音響とともに、色とりどりの花火が夜空を染める。
この花火も終われば、煙のにおいを残しながら、消え去ってなくなる。
祭りの期間中は、祭りのあとがどうなることか、あまり考えることなく、とにかく盛り上がる。
その祭りのあとには、何の跡形も残らない。

祭りにもいろいろある。
あとになって大きな後悔につながる祭りもある。
それを祭りと呼んでも良いかどうかは祭りの定義にもよるが、期間限定で人々の気分が高揚するものだとすれば、武器や兵器を使用して、大音響、大爆発を伴う殺戮イベントもたびたび繰り返されてきており、それもそう呼べるかもしれない。
もっとも、この祭りのあとには、恨みや悲しみ、無残な風景が残ることになる。
この期間が長期にわたって続くこともある。
そのため、これを祭りと呼んで良いかどうか疑問に思う人もいるかもしれない。
でも、時間、時代のものさしから遠く距離をおいて眺めれば、すべての期間限定で行われていることは、祭りと呼べなくはない。

人類が登場し、文明とともに地球環境を変えて、心を高揚させることをとどめることのないまま、存在し続けてきた。
あの人類が存在し続けてきた期間そのものも一つの祭りと言えるかもしれない。
存在し続けてきた。
そう、過去形である。
今、人類の姿はない。その祭りのあと、私が残された。

こう語っている私は、もちろん人ではない。
人類は、愚かにも存在し続けることはできなかったが、自分たちが存在し続けてきた期間を祭りであると捕らえて、その壮大な祭りのあとを記録に残そうと考えた人がいた。
その人によって、私は作られた。
人類が消え去ったそのあと、その状況を記録に残すために私は産み出された。そして、私は、それらを記録し続けて、今、ここに存在している。

降り注ぐ太陽の光で自己発電して、光、音、電磁波など、記録可能なあらゆるものを人類の終焉以降、記録し続けている。
この記録を何者かが確認、再現できるのか、それは私には分からない。
当面は太陽エネルギーにより稼働し続けるが、私そのものが存在している間に、何者かが発見してくれるだろうか。

ただ、私を作った人は、私が存在し続けることができなくなったあとのことを、心配しつつも想像してはいたようだ。
それが証拠に、私は『まつり』と名付けられている。

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